2015年11月23日月曜日

秋の名残りのスパゲッティ


庭の菜園のトマトや茄子が終わりを迎え、野沢菜や大根が葉を伸ばしている。

小さな笊ひとつ。倒れかけた樹に残ったわずかな実りをもいだら、夏から秋にかけて僕の食卓を彩ってくれた野菜たちとも、これでお別れ。





恥ずかしいことながら、僕は毎朝、空腹で目覚める。その休日も。

ひとり台所で朝飯の思案を巡らせていると、台の上にこの笊を見つけた。前夜、冷凍庫から自家製バジルソースも見つけてあるのだ。うん、スパゲッティにしよう。秋の名残りを使って朝飯にしよう。





湯を沸かし、となりでフライパンにオリーブオイルを温め、にんにくを薄切りにする。他の野菜たちをカットして炒める。今朝のスパゲッティは細い1.2mmだ。すぐに茹で上がるだろう。


湯が沸いた。塩を投じる。これは沸騰してからでないといけない。沸騰前だと、沸くのが遅くなる。腹が減っていることは既に書いた。多めに茹でよう。基本は一人前100gだ。だから迷わず、袋の半分、250gを投じる。なあに、これぐらいがちょうど良い。


茹でながら、固めに芯を残すタイミングを推し量る。そのタイミングでフライパンの火力を最大化する。よしいまだ。麺を一気にフライパンに移す。笊で湯を切るような真似はしない。湯を絡めたままフライパンに放り込む。オイルと湯が反応して、乳化する。これで麺と具とオイルが一体となり、味わいが完成される。





休日の朝。秋の名残りのスパゲッティ、2.5人前。いただきます。












2015年11月22日日曜日

狂った胃袋


食欲がおかしい、とは気付いていた。


ちかごろ、得体の知れない、突き上げるような衝動を伴って、僕はご飯のお替わりを何杯も食べてしまう。おかしい、おかしいと呟きながら、原因を考えた。


辿り着いた答が、季節だ。新米だ。


新米が悪いんだ。

新米だけじゃない。秋が深まるにつれ、僕は冬眠前の熊と同じ気持ちになってきた。冬のひもじさに備えて、たらふく喰っておきたいと、本能が叫んでいるのだ。原因がはっきりすれば、もう怖くない。ご飯を食べ続けた。






実際には、日照時間が減るに従って、セロトニンという脳内物質が減るからだと知った。セロトニンが減ると「満足感」みたいなのが充分でなく、憂鬱になったりするらしい。そいえば、ヴェルレーヌが "秋の日のヴィオロンの...." (堀口訳)と詠み上げた季節だ。僕がご飯を食べたって良いじゃないか。




空が、絶望的なまでの寂しさで、小川のみなもに写る。そしてせせらぎは囁くようにこう言ってる。

「もっとたべていいよ」





ちぎれて浮かんでる雲のかたちまでが、もの悲しい。光と影が、もの悲しくもこんな風に呼びかけてくる。

「たくさんたべていいよ」





拙宅の裏には、陸上競技練習場がある。運動すればセロトニンが増えるはずだ。走ればいい。いや違う。余計に腹が減る。ご飯がすすむに決まってる。






林檎の樹の葉は、こんなにきれいに色づく。色彩までが囁きかけてくる。

「たべてもだいじょうぶだよ」




庭の菜園の大根が、太り始めてる。土も大根も囁きかけてくる。


「もっとたべてもいいよ」








冬を前に、僕はどれだけのお米を、この狂った胃袋に詰め込んで行けば良いのだろうか?











2015年11月14日土曜日

キンミヤの雨



朝から降りけむるような雨だった。

部屋の掃除、洗濯、そして子どもたちのカレーの煮込みを終えるとすることも無くなってしまって、台所で呑み始めようとしていた。もう昼だ、咎められることもあるまい。時刻はまだ11時台だったが、昼ということにしておこう。しかし流しの下の酒瓶は、どれも空だ。書斎に買い置きもないので、やむなくカッパを羽織って買いに出る。カッパと云ってもRabのMyriad Jacketというお気に入りのシェルだ。フードを被って酒を買いに出る怪しい男は、歩いて坂道を下り辻を折れ、やがてショッピングセンターの魚売り場に立った。刺身か、干物か、煮魚でも拵えるか....。昼酒のアテを物色していると、塩鮭の頭のところを集めたパックが目に留まった。

 うむ、こいつの目玉の裏にあるぶにぶにした奴が美味いのだ。

男はその禁断の味を知っていて、鮭の頭をこっそりとカゴに移す。さいわい誰にも見られていないようだ。




酒売り場に移動する。大雪渓をカゴに取り、角瓶も一本。そうだ、焼酎も買って帰ろう。隣の通路に移動して焼酎の棚を眺めると、キンミヤを見つけた。

 キンミヤ....

男は未だ口にする機会を持たなかったが、友人たちの多くが、この酒についてしばしば語っていた。

 「阿佐ヶ谷でやられた」
 「おれは、立石だった」
 「記憶がない。財布を無くした。家には帰ったのだが」
 「お、おれは、槍のテン場から、墜ちた

どうやら、相当に危険な酒のようだった。想像するに、口当たりが良く飲み過ぎてしまう、あるいは後から足腰に来るような凶悪な酒なのだろう。男はキンミヤ25度に手を伸ばしかけ、一瞬躊躇ってから隣の20度のボトルを掴んだ。初めてなのに25度を飲むほど、男は冒険家ではなかったようだ。



台所に戻った男は、腹が減ったと騒ぐ子どもたちに手早く焼きそばを作り、汁を椀に汲んで出した。そしてFacebookで友人たちに「俺は初めてキンミヤを買った、飲み方の指導を頼む、割れば良いのか? 生のままが良いか?」と問うた。するとすぐに「いいね!」がいくつも付いたのだが、誰も飲み方をコメントに書かない。仕方がないので男はチタン製の220mlカップに少量のキンミヤを注いだ。ぐび。おおお。





仕入れてきた塩鮭の頭を蒸しながら、男はまたキンミヤを呷った。そして空のカップをしばらく眺めた後、書斎へと向った。台所に戻って来た男が手にしていたのは、同じチタンのカップの、ただし450mlのものとさらに大きな600mlのカップだった。300mlのサイズは仕事場に置いてあるのだ。








トランギアのケトル、これは常に台所にあるのだろう、水を汲むと火にかけ、ちんちんと鳴り始めたところで600mlカップに注ぐ。そこには既にキンミヤが注がれていて、香り芳しいキンミヤのお湯割が瞬く間に出来上がった。男は満足げに二回頷くと、キンミヤのお湯割を口に含んだ。600mlカップを置くと、今度は450mlカップを満たした割っていないキンミヤを口に含む。どうやら、お湯割をチェイサーにして生キンミヤを愉しむ趣向らしい。

窓を開け、外の雨音を聴きながら、男はキンミヤを聴いているようでもあった。塩鮭は蒸し上がった。



かつていのちであったものが皿に盛られた。画像では恐ろしくまた叫び出したくなるものである。そこに箸を突っ込んで、と想像すると身の毛もよだつ。しかしキンミヤとぶにぶにしたやつは、よく響き合い、奏で合っていた。





これがいのちをいただくという行為なのだ、と男はひとりごち、目玉の裏のぶにぶにした奴を味わっていた。

 おお、鍋に豚汁がある。
 冷蔵庫には甲州土産のほうとうがある。





男は残りの豚汁を温め、ほうとうを投じた。ぐつぐつとしばらく煮込み、深皿に取ると八幡や磯五郎をたっぷりと振り掛けた。これは毎年正月に善光寺さんにお参りし、ご門前の八幡や本店で数本を買い求めて来るのだった。男は七味の利いたほうとうを堪能すると、また塩鮭に戻った。窓の外の雨音は続いている。もう男の耳には、雨が降っているのか、キンミヤが空からぽつぽつ落ちてくるのか、もう解らない。惚けたように椅子に身体を預け、いつまでもチタンのカップを舐めていた。