2016年2月14日日曜日

闘うランチボックス


僕は「食べる」ということに関して、妥協ができない。

たとえば2016年の2月15日の昼飯というものは、僕の人生でたった一度しか経験できない重要な昼飯であって、何か他のものに置き換えるということは絶対に、有り得ない。良く考えて欲しい。2月15日の昼飯は2月16日の昼飯じゃない。完全に異なる経験なんだ。だから朝飯であれ晩飯であれ、飲んだ後の締めであれ、メシというモノ・コトを決しておろそかにしてはならない。

昨年末に入院したことは、以前にも書いた。

こんな僕にとって、入院中の「絶食」という経験は、人生そのものを否定されるような重みがあった。だって僕は、生きるために食べるんじゃない。食べるために生きてるんだ。永遠に失われてしまった僕の食事。永遠に取り返すことのできない朝飯と昼飯、そして晩飯。そう思うと、安易に百均タッパーをランチボックスに使っていた自分が、情けなくなった。

失われた飯を求めて、僕はランチボックスを買い替えた。





見よ。
まるで溢れんばかりに盛り上がったおかず。

このランチボックス、DOMEというコンセプトに、瞬殺された。

山は高きが故に尊からず、とは云うが、飯の盛り方は高きが故に尊い。大きなどんぶりに、滝谷のドームのように盛るのが正しいと、僕は主張してきた。

だから、昼飯の弁当の盛り方も、同じく高くなければならないはずだ。

ご飯を目一杯敷き詰めて尚、上部空間におかずスペースを確保しているという考え方は、ランチボックスの究極の進化系なのだ。




上に掲げた状況を俯瞰して撮り直している。一見平凡な構成だが、その実力は測り知れない。手製きんぴらごぼう、庭のホウレンソウ炒め、北海道産金時豆を自分で炊いたの、信州牛切り落とし焼き、北海道産天然鮭焼き、広島産牡蛎のアヒージョ。海苔を敷いてあるので、実はこれは海苔弁なのだが。とすると、白身魚のフライが足りなかったか。




或る日。九州産高菜漬け炒め、セブンプレミアムの焼豚切り落とし芥子添え、豚バラ肉の炒め七味かけ、セブンプレミアムのウインナーソーセージ、きんぴら。




鯵フライ(総菜)、手製ハンバーグ、焼き鮭、焼きたらこ、ひじきの煮物、タコのアヒージョ、ミニトマト。




塩麹に漬けた豚バラ肉炒めマスタード添え、ソーセージ2種盛り、焼き鮭。




天ぷらは、ピーマン、エノキ、人参と玉葱。天つゆも携行。豚小間肉炒め、自家製の練り梅。




弁当を作れない日もある。
袋麺を茹でて、生玉子と刻み葱を載せて。このために仕事場にもトランギアのストーブを置いてある。




ピーマンと厚切り豚バラ肉のソテー、煮玉子、じゃこの佃煮、ベーコンの切れ端は子どもの朝ご飯の残り物。




天ぷらは、かき揚げ、海老、鶏ささみ、芋。厚切り豚の塩麹漬けのソテー。自家菜園の野沢菜漬け、じゃこ佃煮。自家製の梅干も。




天然鮭、目玉焼き、ソーセージマスタード添え、魚肉ソーセージ焼きにマヨ七味添え、野沢菜とじゃこ。これもおかかを忍ばせた海苔弁スタイルだ。




ピーマンと厚切り豚バラ肉エバラ黄金の味仕立て、玉子焼き、野沢菜じゃこ梅干。




天ぷらは大葉と竹輪。鯵フライ(総菜)に手製ロースカツ、高菜漬け炒め。




仕事場のデスクの引き出しには、調味料が各種揃えてある。タバスコ、醤油、八幡屋磯五郎の七味唐辛子、同じく一味唐辛子、中濃ソース、とんかつソース、チューブのマスタード、本わさび、ホワイトペッパー、マヨネーズ。この他にカプラーのスパイス袋など。




厚切り豚バラ肉炒め、カリカリ唐揚げ、マカロニ、梅干。

え? 胸焼けがする?
一度、診てもらった方が良い。




豚小間肉エバラ黄金の味仕立て、焼き鮭、からし明太子、魚肉ソーセージ、ウインナーソーセージ、高菜漬け炒め。受診は早めに。上部消化管に異常があるといけない。










2016年2月13日土曜日

烏帽子岩の神さまにお供えを


三週連続のスノーハイク、今回は美ヶ原北側の山塊に突き出た「烏帽子岩」を目指して雪の尾根道を拾う。平成28年2月6日土曜日のことだ。

烏帽子岩という名称は、美ヶ原の王ガ頭のそばにもあるけれど、この日に足を向けたのはもっと北の方、三才山峠のほど近く。にょっきりとしたピナクルには、烏帽子大権現様がお祀りされていて、山の神であると同時に女鳥羽川水源の水神様として、古くから崇められてきた。

ちょうどこの週末、僕の友人たちが奥秩父の一角で野宴を開くという。駆け付けることの出来ない我が身を嘆いてもどうにもならん。せめて、野宴の盛会を願い、山の神様である烏帽子岩大権現様にお供えを携えてきたのだ。




標高910m、女鳥羽川本沢にかかる橋を渡る。トレースがあるのは、きっと物好きなスノーハイカーとみた。この先で道は地獄谷に向う細道を右に分け、さらに尾根の取り付で左右二股に分かれる。左は送電線の巡視路で歩きやすく、今回はこの道を選ぶ。右の道は古くからの炭焼き場を過ぎてから、どえらい急斜面をジグザグにあがる道で歩き難い。『美ヶ原高原ロングトレイル』の公式ルートはなぜかこちらを通してある。




樹林越し、女鳥羽川本沢を挟んだ山体は戸谷峰1629m。主ピークは右奥の高まりの陰になっている。眼下には国道254号が走る。




本沢に落ち込む斜面をトラバースしていく。




すこし前に、ここらの森と云うか山というか、みんな氷漬けになってしまった。雨氷というらしい。梢に付着した氷の重みは、樹木一本当たり最大1トンを超えてたというが、この重みで倒木がそこいら中に、ほら。




雪質も、厚いパウダーの上に硬い層が乗ったモナカ状態。ツボ足では進めなくなってきたので、標高1,200m付近でワカンを装着。潜り込みがなくなった。僕が密かに「つぼあ氏」と呼んでいたすこし前のトレースは、途中で消えていた。往路を戻ったんだろう。




浅い谷の奥に湧き水がある。一年を通じて涸れているのを見たことがない。




これが氷漬けの梢、雨氷。森全体が凄い輝きに包まれて美しいけど、枝先の小さな芽が可哀想だ。




ひかりの森。




僕が「広場」と呼んでいる1,350m地点。気持ちの良い場所だ。地形図ではこの先へ、1522ピークへと道が記されているが、実際の踏み跡はピークを巻いて尾根に出る。




ぎゅっぎゅっと雪を鳴らしながら、黙って歩く。というのは大嘘で、上田正樹さんの『悲しい色やね』を歌っていた。




樹林越しに戸谷峰ピーク。だいぶ標高を稼いできた。




行く手に誘うような、これは獣たちの足跡。




振り返ると、僕のワカン跡。




テルモスの紅茶を飲んで温まるひととき。白状すると、もう帰りたくなっている。モナカ雪が手強いのだ。ん? 足強いの誤りか。




いや。僕は進む。友のため、野宴のため、山の神様にお供えをしなければならん。




この向こうには、槍から穂高の稜線が眺められるのだけれど、安曇野の向こうには雪雲が出ていて常念さんも見えない。




行く。お供えを。




しかし午前11時。これまで新雪の時でも、こんなに時を要したことはなかった。雪質に破れるか僕のこころ。




もう泣きたくなってる。




標高1,500mで尾根を乗り越す地点に出た。ここからほぼ水平に1キロちょっと、稜線の南側を巻く感じで、烏帽子岩はすぐそこ。

ぐぬぬぬぬ、僕が決めている引き返しタイムリミット11時11分が、非情にもバリゴに表示されている。友よ、許せ。涙を飲んで引き返す。




しかし、お供えを山から持ち帰る訳にもまいらぬ。

山の神様はお赦しくだされよう。
むしゃむしゃむしゃ、うめえええええ。
くるみ大福、大正義。




朝の、尾根取付きの二股まで戻ってきた。




女鳥羽川を渡り返す。




三才山一ノ瀬集落最奥の、現役炭焼き小屋。釜からは煙が立ち昇っている。右側の赤い機械、「まきわりかあさん」って書いてある。いいね。




夏きざす頃の烏帽子岩大権現様。今回はお供えを大前に差し上げられなかったけれど、くるみ大福を、いや、山の仲間たちを見守ってくださり、ありがとうございました。





2016年2月7日日曜日

妙義山の尾根



これはもう二週間前、膝までの雪が降った数日後の週末のこと。

平日で遊べなかった悔しさに敵を討とうと、雪道具を背負って家を出る。サドルに跨がり、つるつる滑りながら近くの浅間温泉までやって来ると、雪に埋もれた野球場のそばにチャリを停める。





市街地にもまだまだたっぷりの雪。ここから這い上がる尾根道にも、もちろん雪。鼻歌まじりにウエアを整えゲイターを履き、ストックを伸ばす。野球場の前は妙義山と呼ばれる小高い丘になっており、丘を登って里山に分け入ってどんどんのぼり詰めていくと、美鈴湖を経て美ヶ原に至る。至るけどそんな遠出は出来ないので、美鈴湖の畔辺りまで、と決めていた。





ザックが大きいのは、リッジレストが一本入ってる。こいつを広げてケツを据え、珈琲を味わおうとナベやアルストも持ってきているのだ。他にはダウンジャケット、グローブの替え、12本爪、小物。里山なのに12本も爪があるのは僕が小さいのを持っていないから。





ストームゴージュ・アルパインパンツにORのクロコダイル・ゲイター、そしてハンワグのスーパーフリクション。足元の攻撃力は充分。上半身にRabのエクソダス・ジャケットを着ているので防御力も完璧。だって、モーゼに率いられての出エジプト(エクソダス)の時のように、海が割れるんだぜ?





妙義山の入り口はこの案内板が目印。標高650m、民家の玄関脇のようなところを「ちょいとごめんなさいよ」と言いながら。

古い墓地を登って行く。墓石には明治御維新前の元号も多数まじる。案内板によれば、ここは松本藩家中のうち上級武士とされた家の墓所だったそうだ。


さて、尾根に出た。


妙義山の由来は、明治の終わり頃までここに妙義山神社があったことによるらしい。

僕は妙義山古墳跡には寄らず、尾根を東に取る。松林の中を緩やかに登る小径が雪の下に隠されているのだ。

ん?

トレースがある。僕のようなひねくれ者が歩いたか。





市街地北部が見えてきた。ああ、あの辺が僕の棲むまちだ。





たっぷりの雪の中、トレースは続いている。それにしても物好きだな。

この道は、ごく近所の住人たち以外には、知られていない。国土地理院の地形図にさえ、古墳跡までの道が点線で記されているに過ぎない。前の記事で書いたような古代からの街道でもない。

なのに、道は塹壕型にえぐれ、かなりの往来があったのでは、と想像される。単なる山仕事、薪炭の調達程度の往来にしては、道が立派すぎるのだ。そして路傍に佇む石ぼとけのお姿が、この道がそれなりの要路だったことを窺わせる。




雪に埋もれた石仏。無雪期には下のようなお姿で佇んでおられる。






左、天明三癸卯六月 と読める。とすると西暦1783年、与謝蕪村の没年。一方、長谷川平蔵38歳の男盛りである。右は明治八年か。撮影は平成二十七年三月。





するとあの祠に出る。ここは標高898.5m、傍らに三角点「大村」が設置されている。この祠のことは別な時に書きかけたけど、ここにお祀りされているのは山の神さま。つまりこの尾根の道は、祈りの道なのだ。

祠の手前で、トレースの主に出会った。犬の散歩で、近所の方とのこと。





祠から先、美鈴湖まではけものの足跡を拾っていく。





標高1,050m、林道湯ノ原線に出る。冬季閉鎖中で除雪も入っていない。





ここは「美鈴湖もりの国キャンプ場」であると書かれた看板が立つ。有料施設なので無断侵入はまかりならぬ、とある。湖畔まで降りて珈琲を予定していたが、長い車道を下ったりまた登り返して来たり、気が重い。せっかくすがすがしい気持ちで祈りの道を歩けたのだ、このまま帰ろう。





往路の僕のツボ足跡。

帰路、あの祠のところでスノーハイカーズに遭遇した。聞くと僕ともご近所の方々で、スノーシュー遊びという。同じことを考えるものですなあ、と少し語り、またどこかで、と別れる。

こうして、たっぷりの雪にまみれて、至福の時間は流れていった。