2017年6月10日土曜日

はるなつの狭間のほろ苦きこと


昨夜のことである。

根曲がり竹をいただいた。北信濃小谷村まで採りに出かけた御仁がわざわざ届けてくれたのである。三割ほどを近所の岳友宅にお裾分けしようと別にして、残りを味わうこととした。





もう何も形容詞を追加することができないプレミアムサイズである。生唾が湧いて来る。下拵えをする手に震えが走る。うわごとにあぶぶあぶぶぴろっぴろとか云いながらシンクに向かう。





七輪に炭火を起こすことを考える余裕がない。ガス台の魚焼きグリルに根曲がり竹を放り込む。もう興奮に感動に動揺で高揚して落ち着きなく、期待感に前のめりになっていて挙動不審である。子供たちはカレーライスを食べていて「パパ何してるの早くおいでよ」という声に「うわあえるけぢなしもかう」とか、ろくな返事もできない。完全にパニックになっている。





一番細いやつが焼けた頃を見計らって、青唐辛子味噌を付けてみる。

激しく美味い。青唐辛子味噌自体が、三年ものの激しく美味いやつだから、当たり前である。味覚は、一定の限度を超えた味覚は、失禁を促す、ということに気づいた。あるいは卒倒を促す。







僕は、みずからの味覚とか嗅覚とかの官能のスイッチを、受容体のデリケートないくつものボタンを、名ピアニストと呼ばれるようなひとたちの指先によって、弾かれたり叩かれたりするという、普通体験することのない奇妙な受け身の体験を、すこし束縛された、もっとああしたいこうしたい、という選択肢を奪われて、一方的なまでに強制的なまでに味覚を送り込まれて、根曲がり竹の筍のグリルで炙り上げたほろ苦いやつを、味わっていた。いや、味あわされていた。それは拷問だった。

こんなものを、ひとは食してはいけない。



すこし気が遠くなって、荒い息を吐きながら、興奮を鎮めながら、僕はシンクの前にしゃがみ込んだ。あのほろ苦さ、味覚と嗅覚と、そして歯ごたえが、大脳に多すぎるメッセージを送ったようだ。大脳は、結果、いま口にしたものは、かけがえのないものであって、再び口にできる機会は少ないだろうと判断したようだ。そのプロセスに多くの混乱があった。これは僕自身のバグだろう。そのため大脳がシステムエラーを起こしかけていた。システムエラーは何度かのループ処理を経て、やがて正常に復帰した。復帰には、かなりの量のモルトが必要であった。

次の瞬間、驚異の小宇宙である人体は、奇跡を招いた。導いた、とも言える。




青唐辛子味噌、だめだよ。
塩で良いよ。

なんと。生命誕生数億年。知性はここまで進化していたのだ。青唐辛子味噌で味わった超・感動、ウルトラ興奮の嵐を鎮め、この爽やかにしてほろ苦い味わいには青唐辛子味噌ではなく、塩で良いという極めてシンプルな判断を下したのであった。



赤穂の粗塩という、人類の文明史上最大の発明品が、偶然そこにあった。

火薬、羅針盤、グーデンベルクの活版印刷、インターネットプロトコル、梅干し、ロキソニン、イージスシステム、常温超伝導、核融合炉、惑星間航法。それら先人の業績が色褪せて見えるほど、赤穂の粗塩は有能だった。根曲がり竹の炙り焼きに赤穂の粗塩は、よく響き合い、奏で合い、僕を惑溺させた。いや、狂わせた。





グリルに炙られし根曲がり竹の、邪悪なること例えようもなし。













これが....






こうなるだけで、僕は狂う。

はるなつの狭間のほろ苦きこと。






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