2017年6月25日日曜日

三歳の眠りより覚醒せし者よ。


書斎の棚の奥から、瓶(かめ)がひとつ、出て来た。

ラップを巻かれほこりを被った梅干しの瓶である。黴の生えた手書きのラベルには、2013年の日付がある。あの年、あの梅、そうだ、思い出したぞ。



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この年の写真はバックアップを残していなかったのだが、旧blogに写真が貼られていたのでここに再録しよう。


この梅たち、特に手前のでかい4L玉であるが、仕込んで干し上げた後に行方不明となっていたのである。まさに江戸開城前夜、千代田の御金蔵からこつ然と消え失せた徳川御用金さながら、消え去ったのである。

要は、「この梅は後々に味わうこととするべし」と保管場所を決めたおりに、わたし自身がモルト漬けになっていたか、あるいはボルドーが過ぎたのか、そんな経緯であったろう。



2013年撮影。ブランド梅の4Lサイズ、手前の梅が今回発見のものである。書斎の棚の奥、瓶の中の闇に三歳(みとせ)ものあいだ、沈黙の眠りを貪りし者たちである。うわあ間違えた。いま指を折ったら、四年経ってるではないか。そんなことも判らないほど意識が混濁してきているその男(7月2日追記)。





もう、フルーツ。





ひと粒が、でかいのだ。以上3カットは2013年のもの。








目覚めよ。
瓶からガラス容器に移す。蜜の溶け出た梅酢も注いでおく。

そして味わうのだ。三歳の月日がお前たちを守り、慈しみ、眠らせ続けたのである。味わいは、いかに。(じゃないもう四年経ってる)






君臨し睥睨している、という印象である。日曜日の朝ご飯、おかずはもずくの酢の物(梅酢仕立て)とサバ缶、そして蕗の煮物である。期待は高まる。






蛇足ながら、いまの私は、サバ缶を味わうにマヨネーズを我慢し、梅酢でいただくようになった。







やはりでかい。ご飯を盛っているのは茶碗ではなく、小振りながらどんぶりである。白いご飯は従兄弟が作るコシヒカリの炊きたてである。それでは、パクー....




ちがう。何かが、違う。
雄弁すぎるのだ。複雑すぎるのだ。ちょっとお行儀よく食べないと誹りを受けてしまうような味わいなのだ。よそ行きなのだ。

冬枯れの山野を眺めるような、枯淡の境地を求めていたわたしが誤っているのだろうか。もう少しシンプルにして愚直な梅干しに仕上がっているのではなかったか。かくまで艶やかで華やかでざわめきに満ちた味わいで良いのだろうか。

わたしは少し考え込んでしまった。しかし詰まるところ、これが紀州産南高梅の4Lという梅の持ち味なのだろう。しかも塩分を20%ではなく16%としている。梅本来の個性を引き出し、凝縮させた結果なのかもしれない。

まだまだ奥が深い。梅仕事というのは、遠い道のりを行くようなものなのか。









これは今年のLサイズ。可愛いものである。





赤紫蘇を揉み込んでみた。良い色に染まりつつある。





そしてちまちま、手に入った分だけ1キロ2キロと追加していく。まだまだ、続くのである。




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