2017年9月3日日曜日

平出の泉の畔で考えた


わたしはエメラルドグリーンの水を湛えた泉の畔に立ち尽くしていた。陽光は眩しく、蝉の声が森中に響く、夏の正午近くだった。泉の底の白っぽい砂が見えている。二羽の水鳥が浮かんでいる以外、魚影など生き物の気配は伺えない。現実離れした色彩に戸惑いながらも、ここを訪れることができたことを素直に喜んでいた。







となりまちの塩尻、平出遺跡に足を向けた。遺跡公園近くの平出博物館で、『顔・かお・貌』という企画展が催されていたからだ。土偶など縄文から古代にかけての遺物を展示し、大昔の人々による表現の一端に触れるという企てだろう。


博物館を訪ねながら、遺跡公園にも寄ってみた。復元住居にはあまり興味がなかったのだが、なんとなく、遺跡から眺められる風景を確かめてみた。





スマートフォンのカメラでは写し込めていないのだが、画像中央に穂高の峰嶺が写っている。西穂から奥穂前穂明神までの鋭利なスカイラインは、太古の村人たちにどのような想念を抱かせたことだろう。

晴天の冬の早朝。この近くの場所から、純白の中に黒々とした岩壁を覗かせてそそり立つ穂高を眺めたことがある。前山となっている島々谷の両岸の山々は、まだ夜の闇を引きずっていた。その向こうに、岩と雪の伽藍がほの白く浮かぶ。

すると突然、奥穂のてっぺんが薔薇色に輝き始め、ジャンダルム、北穂と続き、やがて前穂あたりも朝日に染まっていく。やがて発光するかのようなまばゆさで、穂高が燃えはじめる。モルゲンロート。その朝のわたしは、全身に鳥肌を覚えた。太古の村人たちも同じように感じたのだろうか。神々の座を感じ取ることがあっただろうか。






復元された住居の向こうに、比叡ノ山が見える。これから訪おうという場所である。






遺跡公園の南の集落には、本棟造りという伝統的な建築様式の民家が多い。そんな集落の中央を、清冽な流れが奔る。地元の人々は「かわ」と呼んでいるようだ。

「かわ」は、比叡ノ山の泉から流れ出している。流れを辿って、泉を目指そう。





辻の流れの傍らには、お地蔵さまや道祖神、庚申の碑などが立つ。集落で連綿と受け継がれてきた「いのり」のかたちを見る思いである。





夏の日差しの下、せせらぎの響きが心地よい。平出の遺跡に太古の人々が暮らしていた昔から、この「かわ」があった。数千年もの間、この音が人々の暮らしの中にあったはずだ。





流れをせき止めた水仕事のための足場がある。ここでは「どんど」と呼ばれている。





水を汲んだり菜を洗ったり、暮らしのあらゆる場面で活かされていると聞いた。




流れを遡って来ると堤があり、その先に泉の水を満たした池があった。ここでわたしは想念をまとめようとしばらく放心していた。





池の山際に水神さまだろう、祠が祀られ、そのあたりから水が湧き出ているのだろう。

わたしは、泉の、池の畔に佇んでいた。太古から人々の暮らしを育んできた泉の水。五千年という時の流れの中、静かにこんこんと湧き続けていのちをつないだ水。そう、この水の恵こそが、いのちの源泉だったのだ。





泉の先に博物館の建家が見えていた。『顔・かお・貌』展は残念ながら9月3日まで。





期待いっぱいに、エントランスをくぐる。



■ □ ■

土偶を見てみたい、という気持ちは、ここ数ヶ月の間にゆっくりと膨らんでいた。少し前に眺めた書籍があるのだが、ここに掲載されていた土偶の表情が、わたしに刺さったのだ。




この書には、諏訪、茅野、富士見辺りの八ヶ岳山麓で栄えた縄文文化のことについて書かれている。ビジュアルも豊富、なかなか良く出来た本である。





これ。国宝として知られる『縄文のビーナス』、その少しとぼけたような表情が好きなのだ。縄文人は、どのような思いを込めてこの表情を創り出したのだろう。その答えを、少なくともヒントを得たいというのが、わたしの気持ちであった。


■ □ ■

日曜日、日盛りの館内は静かだった。見学者は、わたし独り。撮影を禁じる掲示物はなかったが、わたしは何も写さなかった。博物館や美術館という場所は、シャッター音がふさわしい空間とは考えていないからだ。そのかわり、見た。眺めて考えた。誰も居ない分、自由に見た。何度も同じ展示の前に立った。横から覗いたり下から見上げたり、自由だった。

ビーナスのレプリカにも逢えた。この表情が、わたしに、何かを伝えようとしている。写真で見た時からずっと続いている、ビーナスから発せられた語りかけ。それが何かであるか、わたしは受け取ることができていない。ビーナスは何を語りたいのだろう。何かを、間違いなく、わたしに伝えようとしてる。

驚愕したことがあった。

同じ作者の手になるとしか思えない、同じ顔をした、同じ表情の土偶が展示されていた。平出遺跡から出土したものだという。何と云うのだ、これは。同じとぼけた顔。口はぽーんと少し開いている。眼は斜めに彫り込まれている。どこか小動物を思わせるような可愛らしさがある。





土器の装飾にも、似たような表情を見ることができる。何かが訴えかけてくる。展示されている土器にも同じ表情。なんだろう、縄文人が土偶や土器の装飾に施した、この表情は。


考え込んだが、答えは何も出てこない。
だまって展示を見ていた。立ったり座ったり、2時間近くを過ごした。そして受付職員の青年に礼を言って館外へ出た。少し離れた駐車場でカブにキックを見舞い、また泉のほとりに立った。でも答えは出ない。わたしは家路に着いた。



■ □ ■

帰宅して一杯ひっかけ、散歩に出る。家の前の果樹園を通り抜け、田んぼの傍らに立った時だ。いろんなモノコトが脳内で渦巻いていた。



まず、山羊に会った。




次に、稲穂の実りを見た時に、全身に電流が流れたかのような衝撃を受けた。


遠い、断ち切られた向こう側じゃない。水槽の中の魚たちでもない。檻の向こうの動物でもない。ましてや白亜紀の恐竜じゃない。

わたしは、どうしようもない間違いを犯していたのだ。特に根拠も理由もなく、わたしこう考えていた。

にっぽん人の歴史は、コメの水耕栽培や鉄、青銅器の文明とともに始まった。それ以前には、こんにち縄文文化と呼ばれる漁労採集生活を行っていた、古いタイプの人々が列島に暮らしていた。


これは間違いだ。リアルな自分という存在と、今日博物館で出会った縄文の人々が、完全に分断されていたのだ。違う。縄文人は、水槽の中や檻の向こうにある「展示物」なんかじゃない。わたしの、ルーツだ。

何故そう思わなかったのだろう。縄文時代の終わり近く、水耕栽培のはじまりのころ、南方や北方から海を渡ってやって来た人々が居たことは間違いない。しかし当時の造船技術と航海技術をみれば、この列島を埋め尽くすだけの大量の移入があった訳ではないのだ。縄文人こそが、わたしの、直接の、ルーツなのだ。とんでもない勘違いだった。


田園とはいえ人目を避けるために、林檎畑の木陰まで歩いた。わたしは涙がにじんで止まらなくなっていた。しばらく木陰に隠れていたら、風が涙を乾かしてくれた。今日、祖先に会えたんだということをもう一度思い起こし、ふたたび歩き始めた。


あの表情は、縄文のビーナスの顔にほどこされた表情は、「希求」なのだ。間違いない。そっくりの顔をした土偶、土器の装飾の似たような表情、これらはみな、希求を表している。いのちをつないでいくことが困難だった時代、ひたすら祈ることしか手だてがなかった時代、造形に希求を込めたのだ。なにを? 生きることだ。いのちだ。この一点に込められた祈りなのだ。

そしてわたしは、生きている。祖先が希求した通り、いまこうして生きている。この奇跡に、わたしは涙したのだ。








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